僕が神戸大学の経営学部を卒業してから5年以上経ちますが、社会に出て5年も経つと、同期たちはみなコモディティ化し、もはや誰が誰か見分けがつきません。
いや、もちろん顔は見分けつきますよ。30歳手前だと一部の人間を除き、まだそこまでみんな老けてないですからね。何が見分けがつかないかというと、彼らのライフスタイルです。
みんな同じような生き方をしすぎてて、めっちゃ気持ち悪いんですよ。Facebookの投稿なんて「友達の結婚式行った〜」とか、「大学の同期と久々に飲んだ〜」とかばっかです。それ以外に発信できるような真新しいことがないんでしょうね。顔と名前伏せたら本当に誰の投稿かわからない。
「会社辞めて海外を放浪してみた」とか、「キャンピングカーで生活してみた」みたいな、頭のネジが数本外れたやつが一人くらいいてもいいのにと思うんですけどね。
それこそ大学の頃はネジが外れていて面白いやついたんですよ。三ノ宮でホームレスに扮した友達に卵投げつけた自演動画をmixiにアップして大炎上したやつとか。パ○ソニックの内定取消されてましたけど。笑
大学卒業後、社会がそんな彼らをどのように変えてしまったのかを、今日は紐解いていこうと思います。
目次
経営学部のくせに経営者が全然出ない不思議
僕は、特に経営者になりたいわけではなかったのですが、一生会社のコマとして使われるのも嫌だったので、雇う側のノウハウもわかっておいた方がいいかなというくらいの温度感で経営学部に入学しました。
そんな僕はきっと意識が低い方で、経営学部にはギラギラした本気の経営者志望がわんさかいるのだろうと思っていたのですが、実態はそれとは全く異なり、「とりあえず経営学部は就職活動で有利そうだからきてみた。」くらいの人間しかいませんでした。
多くの経営者達とコミュニケーションを取り、起業する起業すると言い張っていた意識高い系もいましたが、蓋を開けてみると市役所職員になってたり、あれは一体なんだったのかと、そんなのばかり。実際、同期で経営者として活躍している人間は僕が知っている中では一人しかいません。
だけど、みんな一流のサラリーマンっぽいのにはなってるんですよね。そして、これがとても厄介。
ほどほどそこそこライフにハマる
国立大学の経営学部を出た彼らは総じて、超優秀です。
謙遜はしつつも、並みのサラリーマンとは比較にならないほど強い上昇志向を持っていて、ものすごい時間効率で働き、収入も高いです。しかも、会社に入って5年も経てば、企業の業績を大きく左右するような責任のある仕事を任され、部下にも慕われ、承認欲求も十分に満たされています。
そして、彼らの生活は非常に豊かです。都心の洒落たオフィスに通い、小綺麗なマンションに住み、大企業ほど土日はしっかり休めるので、可愛い彼女とか仕事のできる彼氏とデートします。さらに、長期休暇になれば羽を伸ばしに海外旅行にでかけたりと、まさにリア充おばけ。また、優秀な彼らはボーナスも巨額なものとなり、将来に備えた貯蓄や投資にも資金を回すことができます。
ほどほどにそこそこ満足感のある人生を送ることができる彼らは、このままずっと同じ生活が続けばいいと思っています。すると、自分の生き方に変化を起こそうなんて一切考えなくなるんですよね。
僕は、このことを「ほどほどそこそこライフにハマる」と呼んでいます。
雇われるが故の不自由からは逃れられない
「保証」を得る代わりに、「自由」を差し出すのが、雇われることの本質です。
つまり、数年間分の生活が保証される代わりに、働く場所や時間、収入、人間関係すら他者に掌握されるのがサラリーマンです。どれだけ優秀なサラリーマンであろうと、多大なストレスを感じないはずがありません。
情報がボーダレス化している現代では、ソーシャルメディアなどで「成功者」は可視化され、皆、本当は雇われているよりももっと良い生き方があるということをわかっているし、ビジネス感覚の鋭い彼らであれば、自分も目指して努力すればそれを手に入れられることも知っています。
だけど、目の前にある「保証」が強すぎて、無意識的に変化を拒む自分がいるのです。
理想を追うことを忘れる
彼らは人並み以上の生活水準で、人並み以上に多くの人に影響を与える仕事ができて、はたからみると多くのものを手にし、幸せな人生を送っているように見えます。だけど、それは必ずしも本人が理想とする生き方ではありません。
大学の頃は、バックパックで年中世界を飛び回っていたような人間が、小さなオフィスに年中縛り付けられながら「これが僕の理想の人生です。」なんて言ってたら、嘘です。
本当に、決められた給料の枠で生活することがベストな選択なのでしょうか。決められた時間の中で生活することがベストな選択なのでしょうか。違いますよね。そう、その選択は妥協なんですよ。まずそこに気づかなければなりません。
一定の収入や時間の枠にとらわれず、好きなことをして好きなだけ稼ぎ、好きな場所で、好きな仲間や恋人と過ごしていたいと思っています。だけど、手に入れたものが中途半端に大きいと、人は理想を追うことを諦めてしまうんですよね。
雇われて5年も経つと、「自由」に興味がないなんて言う人間も出てきますが、それは、女に興味がないと言い張る童貞と同じ。「自由」を知らないくせに、「自由」を否定するのはガキです。
そんな自分を合理化するものもいる
たまに素直じゃない人だと、そんな理想を諦めた自分のふがいなさを誤魔化そうとしてくる人も出てきます。
人間の精神の防衛機制の一つに「合理化」というものがあります。満たされなかった要求に対して、理論化することで自分を納得させることです。
合理化
合理化(rationalization)とは、満たされなかった欲求に対して、理論化して考えることにより自分を納得させること。イソップ寓話『すっぱい葡萄』が例として有名。狐は木になる葡萄を取ろうとするが、上の葡萄が届かないため、「届かない位置にあるのはすっぱい葡萄」だと口実をつける。-wikipediaより-
彼らに、サラリーマンを煽る記事は通用しません。国立大学を出ている彼らはなまじ頭が回るので、なんなら、超ロジカルにサラリーマンの良さをプレゼンテーションしてきます。笑
「労働こそが人生の醍醐味だ!」「働くことの中に人生の意義を見つけるべき!」なんて。僕からすると、労働以外で収入を得たこともない人間がそれを言ったって、何の説得力もないし、ただのワーカホリックにしか見えません。
後悔しないために
「会社以外に居場所がなかったことに気付いて後悔する」というのが定年後の後悔で最も多くを占めるらしいが、会社員であっても、趣味増やすとか副業するとかいくらでもやれることはあったはず。その後悔は、「会社員の末路」ではなく、「会社員であることを言い訳にしてきた人間の末路」だ。
— やまもとりゅうけん (@ryukke) 2016年6月8日
サラリーマンの定年後のもっとも大きな後悔は、「会社以外に自分の居場所をつくってこなかったこと」だそうです。
本来的に、人は会社以外にも自分が認めてもらえる場所を欲しているということです。しかし、会社という環境がとことんそれを邪魔してくるんですよね。人間、おそろしいほど、変化できない生き物です。ついつい、目の前の「保証」という餌に釣られて、現状に満足してしまうんですよ。だけど、その先には後悔が待っています。
国立大学の経営学部を出て5年。同じ大学を出たもの同士でも、既に大きな差がついてしまっているでしょうが、どういう生き方を選択していくかで、これからもっと圧倒的な差がついてくるでしょう。30歳を目前にして、再度人生を改めて考え直す時期ではないでしょうか。
また、常により良い生き方を目指していくことは常に若々しくいることにも繋がってきますからね。変化を諦めた人間は驚くほどのスピードで老けていきます。要するに、変化しなかった人間ほど変わり果てるということです。